神戸のいじめ加害教師の謝罪文について

謝罪

センター長です。

先日の台風18号以降、私が出勤前に見ている朝のワイドショーは、ほぼ全局、ほぼ全ての時間、台風被害のレポートとなりました。

台風の被害を報道すること自体に何の文句もありませんが、その間に起きていた別のニュースについて、全くカバーされなかったのは少し残念に思っていました。もう少し報道の目的を絞ることで、他のニュースの時間を作ることは可能だったと思うのだけど…。

ま、ワイドショーは純粋な報道番組ではないので、やむを得ないのかもしれませんが💦

 

と、この話しはさておき、今ようやくテレビでも取り上げられているのが、神戸市立東須磨小学校での教師同士のいじめ(パワハラ、セクハラ、暴行、器物損壊、などなど)問題。

学校関係の問題なので言いたいことは山ほどありますが、ここは速読教育センターのブログなので、書く内容を絞りまして、加害教師側の主犯格と言われる40代女性教師が書いた謝罪文について、私なりに感じたことを書きたいと思います。

 

こちらがこの教師が書いたとされる謝罪文です。

 子どもたちに対しては、こんな形になって申し訳ないです。子どもたちを精いっぱい愛してきたつもりですが、他の職員を傷つけることになり、子どもたちの前に出られなくなり、申し訳ありません。私の行動で、迷惑をかけてしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っています。

被害教員に対しては、ただ申し訳ないというしかありません。被害教員のご家族に画像を見せられ、入院までしている事実と、苦しんでいる事実を知りました。本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています。

 

まず、「謝罪文」という文章で重要なのは、その謝罪が「誰に対する謝罪なのか」、そして「何に関する謝罪なのか」という2つの要素が明確に表現されているかどうかです。

 

前者の「誰に対する謝罪なのか」については文章の構成的に明確ではあって、前半が「子供たち」へ、後半が「被害教員」へとなっています。自身が教師であり、常に子供を意識の中心においているということを強調したいからなのか、子どもへの内容から入っているようですが、今回の場合、子どもたちはあくまでも二次的な被害者であって、その次に真の当事者である被害教員への謝罪を置いていることに、今回の件におけるこの女性教師の「他人事感」だったり、被害教師に対する「謝罪意識の不十分さ」が醸し出されているように思います。

 

次に、「何に関する謝罪なのか」です。前半の子どもたちへの謝罪については、「子どもたちの前に出られなくなり」申し訳ないということで、教育活動を年度半ばで中断することに対しての謝罪と言えます。ある意味、これは妥当な謝罪ではありますが、その原因が他の職員を「傷つけることになったため」(自身が他の職員を「傷つけたため」ではなく)となっているのが、やはり自分の言動やその意図に原因があるという意識はない表現になっています。

後半の被害教師への謝罪部分については、「申し訳ない」と言ってはいるものの、肝心の「何についての謝罪なのか」がとてもわかりにくい文章になっています。主語や目的語を補いながら読むと、

「被害教員のご家族に画像を見せられ、(彼が)入院までしている事実と、苦しんでいる事実を(私は)知りました。本当にそれまでは、被害教員には(私なり)の思いがあって接していたつもりです。(私)の行動が間違っていることに(私自身)気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、(私としては彼を)かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、(私は)ずっと思っています。」

女性教師自身としては被害教員に、自分の思いをもって「かわいがって」接してきたつもりであって、それがどういうわけか、被害教員が現在入院して苦しんでいるという事実を知ったために、つらい思いをしているという内容でしょうか。

「自分の行動が間違っていること」に今は気付いているというのであれば、その間違った行動が原因で被害教員が苦しんでいるということを申し訳なく思っているとつながります。

ところが、被害教員が入院して苦しんでいるという現在の状況がいったい「どうなっているのかと、(今でも)ずっと思って」いるわけで、はたして「自分の」行動が間違っていて、それによって被害教員が苦しんでいることを現時点で認めているのかどうかが曖昧です。

ややもすれば、誰かに自分が陥れられていると主張しているともとれる表現なので、どの部分に自身の責任を認めて謝罪しているのかが読み手に伝わりにくいのでしょう。

 

ということで、何に関しての謝罪なのかがいたって曖昧、特に被害教員についてははたして謝るべき自身の責任を感じているのかが不明瞭な謝罪文だというのが、私の感想です。ただ、それ自体よりも私が気になるのは、本当にこの女性教師が熟慮の末に書いたのかという点です。

 

この謝罪文、文章レベルとしては、小中学生でもしっかりと時間をかけたら、もう少しまともな文章が書けそうなものです。もちろん、あまりにもきれいで整然とした文章だと、それはそれで思いがこもっていないと批判を受けてしまうのかもしれません。ですが、それにしても大の大人が、しかも学校の教員である人物が、公に公開されるであろう文書を、しっかり推敲の上で書いてはたしてこのレベルなのかと思うのは私だけでしょうか?

この教師にはこの程度の文章力しかなかったというのは確かに1つの可能性だけれども、さすがにその可能性は高くないと信じたい。だとするともう1つの可能性は、この教師がかなり手を抜いて、もしくはじっくりと文章を練りなおす時間をろくに与えられずに、この謝罪文を作成したということ。この文章の背景にどんな力関係があったのかわかりませんが、この女性教師が真摯な謝罪の気持ちをもってこの文章を作ったのではないし、そうするだけの環境も整っていなかったと私は想像しています。

 

皆さんは、この謝罪文を読んで、どんな感想を持たれましたか?

 

【補記】

女性教師の謝罪文は本人が文書提出したものと理解してこちらの記事を書いたのですが、新聞の記事等を読む限り、文書提出したという記述はなく、むしろ「コメント」として表現されているようです。

であれば、私が上記で書いた文書としてあまりに拙いという印象は、多少説明がつくのかと思います。

ただ、逆に言うと、こういった状況にありながら、正式な謝罪の文書が出されずに、あくまでも簡易なコメントのみである点、学校関係者の問題認識が私には理解できません。

保護者は説明会にて加害教員の直接謝罪を求めているようですが、せめて謝罪文・反省文等の発表はあってもいいように思います。それらを含めた処分の決定がまだくだされていないということかもしれないですが。